たまに役にたつ、と思う

日常にある気配を

パワスポの勘違い

神様と話なんてできないけど。

 

すごい能力者の方、ブログ拝読するに、フラットな方っていないなあ、と。なんていうか、選ばれた人、みたいな印象を、ごく普通の方に植え付けるような、選民的な。

 

私は思うのです。

神様と会う場所です、神社やパワスポと呼ばれるところは。

でもその神様って、自分の中。

ようは、自分の中の神聖さだったり、叡智だったり、良心に会いに行く場所。

特段そういう勉強をしているわけでも無いし、神話にもさして興味などなく。

ただ、生物がここに集合して生命が確かに「在る」神秘だとか、自分というあってないような存在だとか、そういうことは子供の頃から知っていました。

別に論破する気もないので、持論など展開しませんが、神様を引き出す方法をここに書いておこうと思います。

 

いろんな生命やいろんな人生、いろんなイノチに触れること。そして感じること。

これが極意かな。

不思議なことなんていっぱいあります。でも別に深追いや意味付けなんてしません。

だって「そうだから」。

家系の先代もそういう人だった。だから。

 

心根です。神様として権化は、自分の中に。その神様って、心根に。

ですから心根が腐っていると、まあ、そんな感じで。そんな神様しか会えないでしょう。

個人的な願いを叶えてくれることってないと思うのです。正確に言えば、生命の営みや自然のリズムや刻み時が歯車の如く回るならば、それが個人的な願いが叶ったという結果になる.ただそれだけ、淡々としています。感情なんてないのです。

何かの構成要素として、先へ進むのは、歯車の一部にならないと。

無になるのが本当に一番です。

思い出すから。自分の役割みたいのを思い出す。

それが、よくいう使命、みたいなものです。これが歯車の歯。

我欲がダメって言われる先人の知恵って、そういうことではないでしょうか。

純粋な願いって我欲ではなく。それはすごく大切だし、生まれたからには大事な責務なんだと思う。

ただ、我欲って、いろいろな後付けの価値観や評価基準や価値付けの末のそれ、なんだよね。

時代や人によって、引き出される欲は。

純粋な欲と違うんです、それ。

欲張りでもいい、でもそれは、純粋な願いで在ること。

 

其処に崇高なナニカが居るのでは無く、崇高なエネルギーなんですね。

エネルギーの種類をおそらく擬人化しているのかなと。

私はその土地がどんなものか、どんな気か、まあまあわかります。

時たま、住宅街の合間にとんでもないエネルギーの穴みたいのがある。

無、みたいな、ゼロ磁場に近しい気の土地もある。

あれがいいのか悪いのか、立ってみないとわからないのですが、割と多く原生林や原始林の現存する北海道はよくあります。

多くを端折りますが、再出発や再起するには北海道、いいですよ。

ただ、住む人は選ぶね、元々生まれた人は別として。

かなり、人を選ぶ土地ではあります。

北海道繋がりで言いますと、北海道神宮の一つの鳥居は縁切り最強です。

なんでしょう、ここまで土、土地の力が強いところってそう無い気もする。

人力とか人為的ではないので、無感情です。だから怖い。

 

よくね、チカラのあるとされる方が、呼ばれたからって、パワスポとかあちこち行きますね。

でも、ちょっと違うと思う。その真意。

呼ばれないあなたはそのエネルギーと共鳴しないってだけでね。

呼ばれる選ばれるとかの次元で無く、あなた自身が必要としていないだけ、です。

純粋に行きたいと思い、行こう!って閃くところは大概行けます。

でも、余計な思惑や欲を出すとダメね。

私など、全く思い通りにならない、そういう意味では。

 

うまくいかないなあって人、ちょっとね、自分の中をクレンジングしたらいいと思うよ。

情報も思い込みも、なんなら経験も一回手放し。手離し。